私は常識という表現が好きではない。

常識を持ち出して論理を展開する輩はたいがいは「常識」という名の思考停止に陥り、
論理に客観性を持たせる明確な意図がありつつも、その意に反して受け取る側は主張者の主観性をビンビンと感じる。


ところで、サラリーマンはこの時期になると出勤、帰宅時のジャケット、ノーネクタイ率が95%を超える。

出勤してからネクタイを着用する人も多い。
確かにネクタイは息苦しいし、つけなくてもよいものでなければつけたくない。
だがそこに、理由もなく周りもそうしているから、勤務時以外は着用しないという層が一定数いるのではないか?

ノーネクタイの合理性とネクタイ着用の必然性がせめぎあう。

これは学ランの首元のホックは基本的にはずす心理と似通っているのではないか?
いわば、若者が腰パンをする必然性。

型にはまったフォーマルからの「はずし」テク。

多少熱い気候なのにあえて上からジャケットやカーディガンを着て、腕まくりするような心理。

「俺、ファッション知ってますよ」アピール

ばかにしていることでは毛頭ない。
ただ、当人がなぜ、どのような必要性や理由があってそのファッションをしているのか。
好みでしているのであれば、本当に好んでいるのか。流されていないのか。自分の意思でやっているのか。
断言できる人は少ないのではないか。


「常識的」という隠れ蓑に隠れて、思考停止していないだろうか。

例えば、企業の重役は出勤時はノーネクタイで、会社に出社してからネクタイを締めるだろうか。もちろん0か100かの誤った一般化は禁物である。そのイメージは浮かぶだろうか。

その出勤途中着用率とその人の属性にはどのような相関関係があり、もしくはないか。
ノーベルトとの違いは?

いわゆる新人類世代、バブル世代、氷河期世代、プレッシャー世代、ゆとり、さとりほか。世代間の認識はどうか・・・・・











常識に捉われて、思考停止したほうが生きやすいかもよ?

(なぜ0か100かの話になるか。)



天然ボケという概念がある。

素でボケてしまうというあれだ。
ただし、天然ボケの人は自ら天然ボケを自覚していない傾向がある。
女性の天然ボケはその醸し出す雰囲気の緩和がほほえましく、ビジネス外であれば好まれることが多く見受けられる。
なお、男性の天然は需要がない。

ところで、私はユーモアやジョークが若いころから好きで、対友人間では意図的にボケたりしていた。そのころ私は天然ボケというのはひとごとだと思っていた。
しかし、大学を卒業して、私あての色紙の寄せ書きに書かれていたひとことが目に留まった。

『(私の)天然なキャラはうらやましいです!!』


俺が天然 だ、と・・・


色紙を見たときは見当はずれのことを書いているなと思ったが、社会人生活を送るにつれ、次第にそのひとことが現実味を帯びてくるように感じてきた。

天然ボケはあくまでも本人はまじめに言動や行動を行った結果であるので、
天然を指摘されるとつらいところがある。持病の発作が出てしまったときのように感じる。



先日、秋葉原の駅前で宗教行事の勧誘をされた。


おおよそ一般的にそういった場面になると選択肢として

①話しも聞かず、とりあわない。
②話を聞いたうえでなんやかんや理由をつけて断る。
③話を聞いたうえで論破しちゃう。
④相手が美人だったらホテルに逆に誘う。
⑤「私が神である」と言って狂人のふりをする。もしくは本当に神だった。

が考えうると思う。

そこで、②を選び、断ったのだが、自分の断りの理由がどうも腑に落ちないので後で考察しました。その時に断った理由とは、宗教的行事に行く必要性を感じないということでした。

考察の前提として、
1.私は特定の宗教ではない。あえていうなら、神道的人生観。
2.特定の宗教を非難するつもりはない。
3.あまり各宗教についてくわしくはない。
4.私は宗教の成立過程や、組織化するメカニズム等は興味ある。



まず、勧誘の概要はアイパッドを見せながら
1.(旧約)聖書は予言の書であり、書いていることは実際に事実となっている。つまり、聖書の教えも事実である。
2.人間は死ぬと天国か地獄に行く。聖書にそう書いてある。天国に行きたいでしょ?
3.天国に行く方法はパンとワイン(キリストの身体と血)を飲むこと。
4.天国に行きたいなら今度パンとワインを飲む祭があるので行きましょう。

ということ。
だいぶ内容をはしょったので、信仰している人からすると誤解を生む表現かもしれないので怒られそう。

内容や勧誘行為の是非はさておき、そのときは言語化できなかった違和感があった。

違和感①
・人は根本的に天国に行きたいか。
 もし死後の世界があると仮定して、さらにそれが天国と地獄だとする。
 まあ、地獄を選ぶ人はいないだろう。
 しかして、天国にどれだけ強い気持ちがあって行きたいと考えるだろうか。
 永遠の命と若さ、黄金でできた都、何でも願うことは叶う。そういう世界。

古今東西の神話から童話、修身、道徳教育、笑ゥせぇるすまん,世にも奇妙な物語ほか、多数の物語に影響されすぎなのか、いいことには裏があるという教訓だけではな、く、根本的に「天国」なるものが自分の求めるものではないと思った。

例えば全てか叶うとして自分は何がしたいか。
・働かず、南の国で遊んで暮らすか。
・国のトップ、世界、経済界、宗教世界のトップになって世界を支配するか。また、全世界から熱望や期待される存在になるか。
・スケールを変えて、田園調布の一等地に大豪邸を構え、経済界と政界を牛耳り、大女優を妻にし、子孫の将来を確実なものにするか。

まあ、本気で考えている人がいても私は否定しない。
むしろ、願望する、できること自体は皮肉的なニュアンスはなく、憧れる。

どこまで自分の願望をイメージするか。
そして、死後の世界で何をしたいかをイメージできるか。また、したことがあるか。
もう一度いうが、地獄は行きたくないのは間違いはない。

違和感②
天国に行く方法としてパンとワイン(キリストの身体と血)を飲むことがどうつながるのか。
科学的な理由は初めから求めていない。科学的な理由を求めるのは単なる屁理屈こねである。

豚、牛、神の使いとなる動物を食べてはいけない。
殺生はいけない。
人に施しましょう。
毎日祈りましょう。

ならわかる。
キリストの身体と血を食べることは聖書ではどのような意味があるのか。
パンとワインをお祝いで出されるような高級ではないもののモチーフとして、
贅沢はするな、節約をしろという教義なのか。聖書のストーリー上たまたまそうなったのか。

このあたりは純粋に私の不勉強な部分だろう。


違和感①と違和感②があいまって、勧誘している人の勧誘手法として布教に効率的なのかどうか、変に心配になってしまった。


ただ、結果論として一定数、信者がいるということは
永遠に若いまま生き続けたい!
金の都に住みたい!
地獄は絶対にいやだ!
と強烈に意識する人の層が一定数いて、

ならパンとワインの飲めばいいじゃん。

となるのだろう。
決してバカにしているのではなく、ほかにも教義や効用があっていいのだろうが、
入信の入り口としてはハードルが高いと思う。

(話がまとまってないけど、ところでお前の望みって一体なんなんだよ。結局、物事を否定したいだけか?)

※物事の単純化と掘り下げを交互に行うと大きな誤解、誤謬に至ることがあります。
※ある程度で考えることをやめないと藁人形論法に陥ります